公開: 2021年11月28日
更新: 2021年11月28日
1960年代から、日本の銀行は、特に都市銀行を中心に、口座の管理を1950年代までの帳簿による管理から、コンピュータを活用した記憶装置上の記録による管理に変わっていた。支店で受け付けられた入出金の依頼は、支店の端末から入力され、コンピュータセンターに接続された通信回線経由で送信される。送信された入出金データは、口座番号をキーとして記憶装置上の口座残金データと突き合わされ、口座の残金が更新される。口座データの更新が完了すると、新しい口座残金が支店の端末に送信され、顧客の通帳に記帳される。つまり、それまで支店で管理されていた口座台帳の、行員による更新作業が、コンピュータセンターのコンピュータで行われ、記憶装置に蓄積されるようになったのである。
そのためのコンピュータシステムの導入と、各支店に導入される端末装置、そして通信回線設備の導入と通信回線使用料などに多額の資金が投入された。さらに、それまで支店の行員が行っていた帳簿の更新作業を機械化するための、膨大な量のソフトウェア開発のための投資は、莫大であった。ソフトウェアの開発規模は、機械語で数万行から数十万行に上ったと予想される。一人の技術者が1か月働いて完成できる機械語のプログラムは、200行程度なので、総工数は数百人月から数千人月となる。当時の月当たりの人件費が数万円から数十万円であったことから、ソフトウェアの開発費だけで、数千万円から数億円に上ったものと予想される。ハードウェアの投資額が数億円から十数億円になると考えられる。
1970年代の第2次オンラインシステム開発では、第1次オンラインシステム開発の時の投資の約10倍の資金が必要になったと思われる。資金が豊富だった銀行でも、過重な投資になっていたと考えられる。そして、1990年代に計画されていた第3次オンラインシステム開発では、さらにその10倍以上の投資が必要になるはずであった。それは、巨大な都市銀行にも、過重な投資であったはずである。特に、日本社会においてバブル崩壊後の経済低迷の環境の中では、一行では負いきれないほどの投資資金であった。この過大な経済負担に耐えられる体質にするためには、各都市銀行の規模を2倍以上に拡大する必要があったのである。それが、メガバンクを生み出した背景の一つであったと言える。一行では担うことができない負担でも、複数の銀行を統合して経営規模を十分に大きくすれば、耐えられる可能性があったのである。